ぽしゃ

いつか忘れた頃に読み返すための雑多な記録帳

シェードランプのほのかな明かり

今日、ぼけーっと映画を観ていたら、とある女性が余命を告げられるシーンがあった。

女性が「余命は?」と訊ねる時、彼女は画面の左側に座っている。彼女の右側には暖炉、その上に小型の時計を据えられているのがぼんやりと見える。

医者が余命を告げる。その間、カメラはゆっくりと左へスライドしていく。余命を聞いた女性が深い呼吸をするあいだもカメラはゆっくりと左へ、左へ移動を続ける。画面の左側からは仄かなオレンジ色の明かりを灯す中型のシェードランプが映り込み始める。女性を中心に据えたタイミングで、左にシェードランプ、右に時計がそれぞれ半分ずつ映る中、女性は表情を固め、治療を続けない意思を告げる。なおもカメラは左へ移動し続け、画面から完全に時計が消え、画面の右半分を女性が、画面の左半分をオレンジ色の明かりのシェードランプが占めるようになる。彼女は諦念の笑みを浮かべて画面の右下端を見つめる。それから、何かを思い出したように顔を上げ、言う。「パーティは去り際が肝心なのよね」*1

 

 

女性に寄り添うものがぼやけた時計からシェードランプのほのかなオレンジ色の明かりへと移りゆく演出。

映画の演出の知識は大学の講義で聞き齧った程度しかないのだけど、おかげで時々そういうところへ目が行くようになった。

それまで映画といえば物語と与えられる刺激を楽しむ方法しか知らなかった。作る側がどんなことに工夫しているとか、映画がどんな歴史を経て今の形になったのかとかそんなことはまったく興味がなかったし、むしろそういう工夫や苦労をうまく隠して物語を紡ぐ黒子に徹することが制作者としての誠意なのだと考えていた。

大学の講義を聞くまでは演出というのは似非ドキュメント番組におけるお涙頂戴シーンなどの、悪い意味で視聴者を騙すための、安っぽい上っ面の作り物みたいなイメージを持っていた。テレビ番組では特に。幼いころからそういった表現で演出のあくどさを指摘する言葉を多く聞いてきたので、自分にとって演出とは現実をゆがめる悪いものという印象があった。

だから大学で映画における演出の説明を聞いて(当然ながら)悪いものではないと知った時とても驚いたし、制作者が意図的に鑑賞者に働きかけることによって映画ができているという話は、すごく面白かった。それからは騙されるのがとても楽しくなったし、騙そうとしている制作者の意図が見えても全然嫌じゃなかった。むしろ制作者の姿が見え隠れするのが面白かった。隠し切れなかった苦労や工夫の跡も、自分しか見つけられなさそうな細かなこだわりもどれもいいなあ、と思うようになった。

 

 

 

なんで急にこんな話をしたのかというと、今日、仕事中の世間話の延長でふと相手の方が「かつて自分は通信大学に通っていたんだよ」という話をされていて、そういえば自分も大学に行っていたんだということをあらためて思い出したからです。

放送大学に行きたい、と思うようになったのも根本には大学が楽しい場所だったという印象があるからで、もしかしたら自分は未だ大学以上に楽しい場所を見つけられていないということなのかなあとふと思った。大学に通った二十歳前後、という年齢的なものも大きいとは思うけど、そんな若い頃に自分より遥かに頭のいい、学問と研究を生業としている人の話を四六時中聞ける(というか講義の時間が来ると強制的に聞かされる)環境と言うものはなかなかない。動画だと早回しにしたり、そもそも見なかったりといった自由があるし、講演会だって退屈なら途中で退室できてしまう。そもそもつまらなさそうな講演会にわざわざ足を運ぶほど暇しているのなら、もっと楽しいことを選ぶ。そういう選択の自由を大人になった今は持っている。

自分は講義中にスマホをいじることはほとんどなかった割と真面目な学生だった(サボることはたまにあった)ので、ある意味、講義の教室は映画館と同じような環境だった気もする。中には聞きたくないこともあるけれど、一度席についたからには逃げることはできない。時には過激な教授の思想も講義を理解するために強制的に咀嚼させられたり、懇切丁寧に説明されているはずなのにさっぱり理解できなかったり。そういう中からささやかな何かを拾い上げられた時は嬉しいし、全てこぼれていってもそれはそれでそういう感覚を得られたことがなんとなく大切なことだったように思える。

*1:映画「アガサ・クリスティー ねじれた家」